言葉で表現「できるもの」、「できない」もの?
ずっと昔に読んで本棚に眠っていて、今日たまたま目に付いた本。
『「私」のいる文章』(森本哲郎著、新潮文庫)
そのなかに面白い文章があった。
昔、著者は記事を書くために相撲とりにインタビューし、相手からひと言も得られずに、記事を書くのを断念したことがあった。
そのことを思いだしながら、書いている。
《なにも会話だけに頼らずに、会ったときの印象をそのまま書けばいいではないか――というのは、たやすい。だが、それはまた至難のことなのである。うそだと思ったら、こころみに友人についての印象を文章にまとめてみたまえ。
フランスの数学者アダマールは、こういっている。
「きみは友人を群衆のなかで見つけることがあるだろう。そのとき、きみはその友人の顔の何百という特徴を見分け、それによってその友人を他の人たちから区別しているわけである。ところが、さて、その特徴を文章に書いてみろといわれたら、おそらくきみは、そのうちのたったひとつの特徴でさえ、思うように書くことはできないだろう」》
この部分のページは折りこんであった。最初に読んだときにも、強く思うことがあったのだ。若い頃は、修練をつめば文章でどんなことでも書けるはずと思った。
しかし、文章では何も書けない、というのが本当のところだ、と思わざるをえない。
人の顔の個々の特徴や、目の前の光景は、文章では表現できない。表現するとまったく別のものになってしまう。
写真や映像にすると、かなりの特徴をあらわすことが出来る。
しかし、文章によっては漠然としたものしか表せない。
他方、映像を見ただけではわからないもの、文章でしか表せないものがある。
文章は物や人が我々に与える諸々の印象のなかから、その特徴的なものを言葉で抽出して示す。
それがわれわれにあたえる印象、意味、感情などを、選択的に表現する。
対象から得られる我々の「認識」が文章の形で提示される。
言葉でなければ表現できないものがそこにある、のは確かだ。
たとえば、上に引いたフランスの数学者の言葉がそうである。これは映像では表現できない。
言葉が表現するのは、対象そのままの固有の印象ではない。(顔の印象そのものは、いくら言葉をつくしても言葉では表現できない。)
そこから抽出される一定の真実(普遍性)のようなもの……、なのだろうか?
『「私」のいる文章』(森本哲郎著、新潮文庫)
そのなかに面白い文章があった。
昔、著者は記事を書くために相撲とりにインタビューし、相手からひと言も得られずに、記事を書くのを断念したことがあった。
そのことを思いだしながら、書いている。
《なにも会話だけに頼らずに、会ったときの印象をそのまま書けばいいではないか――というのは、たやすい。だが、それはまた至難のことなのである。うそだと思ったら、こころみに友人についての印象を文章にまとめてみたまえ。
フランスの数学者アダマールは、こういっている。
「きみは友人を群衆のなかで見つけることがあるだろう。そのとき、きみはその友人の顔の何百という特徴を見分け、それによってその友人を他の人たちから区別しているわけである。ところが、さて、その特徴を文章に書いてみろといわれたら、おそらくきみは、そのうちのたったひとつの特徴でさえ、思うように書くことはできないだろう」》
この部分のページは折りこんであった。最初に読んだときにも、強く思うことがあったのだ。若い頃は、修練をつめば文章でどんなことでも書けるはずと思った。
しかし、文章では何も書けない、というのが本当のところだ、と思わざるをえない。
人の顔の個々の特徴や、目の前の光景は、文章では表現できない。表現するとまったく別のものになってしまう。
写真や映像にすると、かなりの特徴をあらわすことが出来る。
しかし、文章によっては漠然としたものしか表せない。
他方、映像を見ただけではわからないもの、文章でしか表せないものがある。
文章は物や人が我々に与える諸々の印象のなかから、その特徴的なものを言葉で抽出して示す。
それがわれわれにあたえる印象、意味、感情などを、選択的に表現する。
対象から得られる我々の「認識」が文章の形で提示される。
言葉でなければ表現できないものがそこにある、のは確かだ。
たとえば、上に引いたフランスの数学者の言葉がそうである。これは映像では表現できない。
言葉が表現するのは、対象そのままの固有の印象ではない。(顔の印象そのものは、いくら言葉をつくしても言葉では表現できない。)
そこから抽出される一定の真実(普遍性)のようなもの……、なのだろうか?
by mozar
| 2010-01-07 01:43
| 読んだ本など