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田舎生活、文学愛好者の、心おもむくままの気まぐれな日誌。
by mozar
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老人会・町内会の日帰り小旅行(1)

 この秋、地区の老人会連合会、地区連合町内会の行事で、観劇を経験する機会が続いた。
 9月には神戸の「新開地劇場」、11月には大阪の「箕面劇場」

 もともと引っ込み思案の性分で、好き好んで参加するのではないが、地域社会のつきあいで、なるべく断らないようにしようと思っているのだ。参加することにそれほど抵抗感がなくなっていることに、自分ながら驚きを感じる。昔は出嫌いだったはずの自分だが。
 過去に自分も経験した町内会長・老人会長の立場がよくわかるから、彼らの求めにはなるだけ応じようという考えでいることもある。
 となりの町内のTさん(自分と同年生まれで76歳になる)もつきあいがいいようで、地域のいろんな行事があるたびに毎度顔が見られる。
「次の〈日がえり旅行〉は参加するの?」ときくと、 
「元気でいられる間はできるかぎり参加しようと思っている」と積極的な感じ。

 そういうことは別として、町内会等の日帰りの旅行で、観劇を経験したのは久し振りだった。

 9月は神戸の「新開地劇場」
 昔、神戸の〈新開地〉へ行った記憶があるが、何のために行ったのか、行って何をしたのか、演劇を見たのか、宴会だったのか、団体の行事で行ったのか、単に友達と飲みに行ったのか、思い出せない。個人的に自分一人で来たとは思えない。

 旅行業者のマイクロバスで神戸新開地に到着。
 実に久し振りの(というよりもほとんど記憶からも消えてしまった)〈懐かしい〉新開地。
 若い頃、神戸に住んでいたことがあった。職場が元町駅近くにあった。
 あるいは新開地が近い湊川の職員住宅に住んだこともあった。

「昔何度か来たことがあるけど、何をするためにきたのか思い出せない」
 劇場に向かって群れをなして歩くなかで、ぼくは近くにいたCさんに言った。

「新開地劇場」では、歌謡ショウあり、演劇あり、また歌謡ショウあり、延々3時間ほども座席に座っていた。老人会の会員の身にはちょっと過酷で、尻が痛くなり、早く終わって欲しいという思いだった。
 たしかに時間が長すぎたのは問題だった。もちろんそれは主催者側の問題ではない。
 途中で引き上げようと思えばいくらでもそうすることができた。
 歌謡ショウや劇(時代劇)は、しかし、とても新鮮だった。
 まず、登場する主な役者が絶品という感じ。
 化粧した顔貌や姿が観客に受けることを十分に承知していて、聴衆の喝采を誘うような演技をする。
 背景の音響も役者の声もクリアで大きく、人々を芸の世界に引き込んでいく強い力を持っている。
 長年培われたものがここに集積しているという強い印象をもった。
 おそらく日本の各地にこのような劇場が今もなお多数残っているのだろうと思われた。

 ようやく帰るときになって、〈平日〉なのに劇場がほとんど満席になっていたことに驚かされた。
 古びて小さなボロイ劇場でそうたくさんの客は入れないだろうが、公演中一部観客からたえず黄色の声援が発せられていた。けっこう常連客(繰り返し客)があるそうである。
 こんな世界がこの神戸の古びた町にあったということが一つの新鮮な驚きだった。

 このあと、われわれの観光の予定先は近くの湊川神社だった。
 自分には楠木正成の神社という記憶がある。
 「嗚呼忠臣楠子之墓」(ああちゅうしんなんしのはか)
という碑銘があるとかいうはっきりしない記憶があった。
 その碑は今回確認できなかった。
 子どものころ、近くの叔父の家で、戦前の小学校の教科書を読んだ記憶がある。
 そのなかに楠木正成のことも出ていたようなはっきりしない記憶が残っている。

  今回の行事の主体の「先山学園」は、母校(加茂小学校)構内にある公民館や体育館などを会場として、月1回ていど(年10回)講座をもっている。
  公民館事業の一環のようである。加茂地区連合老人会(10ほどある各町の老人会からなる)が主催する形になっている。受講メンバーは30人あまり。
 自主的に参加する人はまずほとんどなく、毎年春先に、各町の老人会長が参加者を調達することになっている。
 当方もできることなら〈ご免〉したいと思いながら、頼まれると参加するに到っている次第。
  参加したらそれなりに楽しめるところもあるのである。

 「先山学園」という名は、加茂地区が「淡路富士」とも呼ばれる淡路島第一の霊山「先山」(せんざん)に抱かれるように存在しているところからきている。

 小学校、中学校の校歌にも「淡路富士」という言葉が歌い込まれている。

  加茂小学校(洲本市立)の校歌の歌いだしは

    姿優しき淡路富士

  青雲中学校(洲本市立)の校歌の出だしは

    淡路富士、淡路富士、柏原(かしわら)連ね青雲に

   (柏原というのは、柏原山のこと。淡路富士(=先山)は学校の北にあり、
    柏原山は学校の南側にあって、淡路島南部に連なる峰々の一つになっている。)



# by mozar | 2019-11-14 00:51 | 地域の活動など

猩々草から始まる古い話


   猩々草から始まる古い話

 散歩の途中で、道の周辺にいろんな野草を目にする。白や黄色や薄青色や赤などとても小さな花を咲かせている種々様々な草を目にするたびに、何という名なのだろうか、一度調べてみよう、と思いながら、通り過ぎていくのである。
 しかし、あぜ道のほんの片隅に自生する小さな雑草で、一見みな同じと単純に思っていた群れのなかにも、よく見ると互いによく似ていながら明らかにちがった種類のものが混じっていることに気づく。実に多種多様の雑草があることを知るにつれて、とてもそのすべての名前を知ることなどできない、そのほんの一部でさえも知ることはとうていかなわないという思いにさせられる。
 思い立って、昔買ったままあまり使用してこなかった六冊ものの野草検索図鑑を取り出してきて調べることがある。調べれば何でもわかるという先入観があった。しかし、たいていは分からないままに終わる結果になるのだ。
 今どきはインターネットというとても便利なものがある。調べれば大抵のことはわかる。その名前さえわかればいくらでも調べられが、肝心の名前がわからなければどうしようもないのである。
 そんな中で最近、思いがけない発見があった。
 何ということもなくパソコンのデスクトップ画面に、いつか撮影した野草の写真を貼り付けておいた。散歩の途中に撮った写真の中から、適当に拾って張り付けたものだった。その写真には数枚の白い花びらとその中央に突き出た黄色い花の芯の部分が写っている。その下方、地面にすぐのところにくびれのある葉っぱが数枚見えている。背景に見えるのはどうやらよく知っている葛(くず)のようで、生命力旺盛な蔓草(つるくさ)の茎と葉が写っている。
 一度調べてみようと、図鑑をあたってみた。最近インターネットサイトで取り寄せて買ったばかりの、〈花の色で検索できる〉というのが売りの一冊ものの野草図鑑。
 この花は黄色……いや、白色だ……白色の花のページを繰ってみる。
 これまでの経験と同じように、どうせわかることはないだろうと〈タカをくくり〉ながらページをめくる。すると予想外なことによく似たのに行き当たった。
「まさか?」と最初思った。図鑑で見つかるはずがない。……
「しかし、まちがいない。まさにこれではないか」
〈おしべがバナナのような色と形をしている〉と解説にある。まさにそのとおりではないか。その草の名前は、

  ワルナスビ

 「ナス科の植物」「外来種で質(たち)のよくない草」とある。
 自分の撮った写真では花の下方に長形のギザギザした葉っぱが何枚か写っている。そういえばそれがナスの葉っぱによく似ている。花の横手に写っている小さな実は、ワルナスビの果実か? 果実は熟れるとミニトマトみたいに黄色く色づくという。(トマトはナス科トマト属だそうだ。)しかし、よく見るとこちらの写真はどちらかというと果実ではなくて〈つぼみ〉のようだ。これから開花する〈つぼみ〉なのではないか。
 名前さえわかればインターネットでいくらでも調べられる。
「環境省の要注意外来生物リストに指定」
「とげだらけの痛いやつ。茎葉だけでなく、葉脈にもとげが生える。とげは長く鋭く、触ると本当に痛いので注意が必要。初めて触ったら悪名に納得するだろう」
「繁殖力旺盛で、牛などが食べると中毒死することもある」
 さらに駆除する方法も記されていて、〈評判〉はすこぶる悪いようだ。
 ネット掲載の写真の例ではトゲがすごいのもあるようだ。
 そこまでわかった時点で、改めてわがパソコンのデスクトップ画像(ワルナスビの写真)を振り返ってみる。たしかにトゲらしいものが見られる。それにしても、これはいったいどこで撮影したのだったか? それが思い出せない。散歩の途中のどこかで撮影したにちがいないが、今さら探して確かめることもできそうでない。

 最近、もう一つの発見があった。
 毎夕の散歩順路の一つに、途中NY電機工業の駐車場を横切るコースがある。最近はNYのS※※工場も斜陽なのか、従業員用の駐車場は空きスペースが目立つようになっていて、片隅の方に雑草が生い茂ったままのスペースが見られる。
 そんな雑草帯の一角に、この夏から秋にかけて、通りかかるたびにいつも気になる草が見られた。朱色の印象的な花をつけている。何という名なのだろうか。同じ駐車場でも限られた狭い箇所でしか見かけないようだ。これまでどこかで見たという記憶もない。
「一度調べてみよう」
 そばを通りかかるたびにそう思いながらそのままになっていた。何度かカメラをもってきて写真を撮った。
 葉は細長く中ほどがくびれているのが特徴。枝が分かれていて、それぞれの頂上部に朱色の〈花〉が咲く。
 あるときその〈花〉をよく見て、「え?」と思った。
 花びらと思っていたのは、花ではなく葉っぱではないか? 枝の先の方の幾枚かの葉が朱色に変色して〈見事〉といったらいいのか、花びらのような形を形成しているのだ。複数枚の朱色の葉が〈花びら)を粉飾していて、その真ん中に、本来の小さい花らしいものが見うけられる。
 不思議というのか、珍しいというのか、その〈朱色の葉〉は、葉全体が朱色であるのではなく、〈花びら〉にあたる部分だけが朱色になる。それ以外の部分(葉の先の方など)には葉の緑色が残ったままだ。
 まさか? 花びらと葉は別々でピッタリ重なっているのではないかと思い、葉から花びらをはがそうとしてみたがはがれない。やはり一枚の葉っぱなのだ。野草検索図鑑を隅々まで当たってみたが見当たらない。インターネットで試みに、「葉の一部が花びらに」と入力して検索してみた。すると引っかかってきた。ヒットした画像を見るとまさにその草そのものである。

  ショウジョウソウ

 漢字で「猩々草」と書く。トウダイグサ科で、〈ポインセチア〉もその仲間だということだ。(ネットで見るとポインセチアは、上の方の葉が鮮やかな赤色に染まり花びらのように見える。よく見るとそれは明らかに葉っぱである。)
 ショウジョウ(猩々)というのは、中国由来の架空の動物の
にした記憶がある)、インターネットで画像を検索すると、猿に似た赤い生き物の絵が引っ掛かってきた。その姿は、この花(葉っぱ)の印象にぴったりの印象がある。
 ネット検索をさらに続けるうちに、「赤いものや人をショウジョウということがある」との情報が引っかかった。この情報を知ったとき、思いがけないことに、小学生の頃見た古い映画のことが思い出されてきた。

  五升酒のショウジョウ

 東映映画「紅孔雀」――当時子どもたちの間に大人気を博した映画だ。その映画にザンバラ髪の浪人風サムライがでてきた。陽気で豪快な人柄の大酒飲みで、剣の腕もすごいようだった。〈五升酒の猩々〉と自ら豪語し、当時人気の俳優・大友柳太郎が演じた。酒飲みは顔が赤くなる。そのせいで〈ショウジョウ〉という名が使われたのだと今はじめて気付かされた。
 映画「紅孔雀」の主人公は野性的な魅力の中村錦之助演じる那智の小四郎(那智の小天狗)。その小四郎が、東千代之介演じる盲目の美剣士・浮寝丸と対戦する場面もあった。
 東千代之介については、そのころぼくには特別の思い入れがあったのだった。
 小学生の頃、ある日両親は小さな郵便ポスト型の貯金箱をぼくに見せて、これに少しずつお金を貯めていこうと発案してくれた。その貯金箱は押し入れの片隅に置かれることになった。
 もちろん終戦後間もない貧しい時代で、子どもたちに小遣いなどほとんどなかった。貯金箱には親が折々に少しずつ小銭を入れてくれたのだった。それはぼくのものだと言われても、それを自由に使えるわけではないから、自分のものという気はしなかった。
 あるときぼくはその貯金箱から硬貨を取り出す方法を思いついた。紙片を細長く折りたたんで、貯金箱の硬貨の投入口にあてて傾けると、一枚一枚硬貨を取り出せるのだ。親に見つからないように隠れて、押し入れから小さな貯金箱を出してきて、少しずつ小銭を取り出すのだ。疚しい思いから自由ではなかったから、目立たないほどに控えめにくすねるのである。
 どういうきっかけで映画を見にいこうということになったのか。なぜ東映映画だったのか。そのへんの事情はさっぱり思い出せない。親に連れられて、何かの映画を見に行ったのがきっかけだったかもしれない。そのとき近日放映予定の予告編を見て、ぜひあれを見たいと思ったのだろうか。
 いずれにしても、それ以来ぼくは映画館へ何度となく通うようになった。よく覚えていないが、当時は多分映画を50円くらいで見られた時代ではなかったか。
 そんなふうに親に隠れて最初に見た映画は忘れもしない「竜虎八天狗」だった。東千代之介の主演で、彼が演じた役柄は〈真田大助〉という若髪姿の剣士だった。
「竜虎八天狗」の最初の場面は今もなお記憶に残っている。
 父親(真田幸村)が亡くなったあと、託された大事な秘伝の巻物(「水虎の巻」)が床(とこ)の段に保管されていて、それを守るため、若い剣士・真田大助(東千代之介)は枕元に刀を置いて就寝する。そこへ夜中に巻物を狙った侵入者があって大事なものを盗んでいく。それは蝉阿弥という蜘蛛の妖術を使うくせもので、坊主頭で薄気味悪い笑いを浮かべている。大助は家の庭まで追いかけて出て、大切な巻物を取り返そうと戦いを挑む。しかし、相手は大きな蜘蛛の姿になって蜘蛛糸を繰り出して、大助の剣を絡めて無力にする。大助は必至にもがきながら結局巻物は盗まれてしまうのである。
 もう一つ記憶に残るのは、この映画(四部作ものの第一篇)の最後のところ、大助が若くて精悍な忍術使いと剣を交えて戦う場面である。忍術使いの名までもたしか記憶にあった気がするが、今はどうしても思い出せない。ネットで調べると出て来た。〈来(らい)喬太郎(きようたろう)〉。間違いなくそういう名前だった。多分この者も何かの巻物(「火竜の巻」だったか?)を持っていたのではなかったかという気がする。
 この忍術使いを演じた俳優は、たしか三条雅也だったという確信に近い記憶が私の中にずっとあった。しかし、いつかネットを検索していてそれは記憶違いだったと知った。
 大助は剣を交えてのこの忍術使いとの戦いで、最初は優位に立っていた。彼は相手を崖っぷちに追いこんでいく。しかし、追い込まれた来喬太郞は、身体の右側で、刀を両手で握りしめて切っ先を上に向けたポーズで身構える。すると怪異な煙が忍術使いの身体からモクモクとわき出てきて、大助に向かって迫ってくる。大助は煙に包まれて苦しんで崖から落ちそうになり、落ちまいとしてもがく。相手の顔は不気味に笑っている。危うし真田大助……以下は次篇のお楽しみ……そして「第2篇」への予告画面が続く……
 この映画はぼくには強い衝撃で、何ともいえない甘美なわくわくする喜びを覚えた。途中で観客から何度か声援が上がった。東千代之介への特別なあこがれが生じたのはこのときからだった。こんないいところで終わったからには次の篇も見ないわけにはいかない。けっきょく第一篇、第二篇、第三篇、そして完結篇まで全部見ることになった。第二篇の冒頭で大助が崖上から谷底へ転がり落ちたという記憶はあるが、それ以降の内容はまったく思い出せない。
 ネットで知るところ、原作者は吉川英治とあり、「吉川英治文庫」に同名の本が今も出ているようだ。
 子どものころ妖術使いとか忍術使いとかいうものには、不思議な魅力を感じた。当時猿飛佐助や霧隠れ才蔵などという名前をマンガ本で知ったように思う。妖術使いは奇怪な化け物になったりして、子どもの魂を魅了する。幼い頃夢中で読んだ漫画「赤胴鈴之助」(武内つなよし作、「少年画報」に連載)に「鬼面党退治の巻」というのがあった。夜分それを読んでいたとき、鬼面党のメンバーがかぶる般若の面をとても怖いと感じ、怖いもの見たさというのか、何度も繰り返し魅入られるようにその面を見返した、という記憶がある。エキスのように凝集されたその怖さが他方では逆らいがたく魅惑的だったのかもしれない。赤胴鈴之助はいろいろ奇怪な顔姿をし、怪しい力をもつ悪者たちに出会う。破壊的な力をもった怪物たち。その怪物をやっつけるところに面白さがあるのだが、逆に見るとその怪物たちは恐ろしい力で主人公らを危機に追い込み、はらはらさせる。その破壊的な力、魔的な力に、怖さとともにある不思議な魅力があったように思う。子どもたちはそれらの悪ものたちがいかに不思議で強く恐るべきかを強調して話した。目を輝かせながら。
 ネット検索するうちに、東千代之介が出演した「笛吹童子」「里見八犬伝」「紅孔雀」など、あのころ子どもたちに人気を博した映画について詳しく書いているサイトがあり、思いを新たにする。懐かしい「紅孔雀」の主題歌をYOUTUBEの動画で視聴することもできる。

 まだ見ぬ国に住むという
 紅(あか)き翼の孔雀どり
 秘めし願いを 知るという
 秘めし宝を 知るという 

 これは「紅孔雀」の主題歌の冒頭部分だが、ネットで検索すると、「作詞:北村寿(ひさ)夫、作曲:福田闌童(らんどう)、歌:井口小夜子、キング児童合唱団」とある。北村寿夫、福田闌童……とても懐かしい名前だ。
「紅孔雀」はNHKのラジオで毎日夕方放送されていた。北村寿夫原作の「新諸国物語」の一環で、子どもたちは夕方のラジオにかじりついた。「紅孔雀」が終わった後、「新諸国物語」シリーズは「七つの誓い」「オテナの塔」などと続いたが、その辺の記憶はほとんどない。
「紅孔雀」はやがて中村錦之助の〈那智の小四郎〉を主人公として映画化されたわけだ。そんななかで、少年たちに人気だった俳優・大友柳太郎(五升酒のショウジョウ)や東千代之助(盲目の美剣士・浮寝丸)も登場してきて、当時の子どもたちを魅了したのだった。この映画は第五篇くらいまで続いたと思う。
 インターネット辞書〈Wikipedia〉によると、「紅孔雀」は
《東映が一九五五年の正月興行作品として製作した。東映京都制作。いわゆる「ジャリ物(子供向け映画)」の中編映画として製作した東映だったが、まだTVに「子供番組」の時間帯などなかった時代でもあり、明けて正月から子供を中心に大動員の特大ヒット。これには製作した東映が一番驚いたという。会社側も大喜びで、このころ東映の電話応対は女性交換手がにこやかに「はい、『紅孔雀』の東映です」と応えたという。》
 映画は見たことはないが、『笛吹童子』の歌も不思議に記憶に残っている。これは『紅孔雀』よりも古い映画で、調べてみると、新諸国物語の一つであったようだ。たぶん映画化に先立ち、夕方のNHKラジオでも連続放送されたのだろう。当時、『紅孔雀』以上に、『笛吹童子』『里見八犬伝』にあこがれを感じていた記憶がある。友達の家に漫画の単行本があって、夢中で読んだような記憶がある。どこで覚えたのか『笛吹童子』の歌を口の中で何度も繰り返していた。

 ヒャラリ ヒャラリコ
 ヒャリコ ヒャラレロ
 誰が吹くのか ふしぎな笛だ
 ヒャラリ ヒャラリコ
 ヒャリコ ヒャラレロ
 音も静かに 魔法の笛だ
 ヒャラリ ヒャラリコ
 ヒャリコ ヒャラレロ
 たんたんたんたん たんたんたんたん
 野こえ 山こえ

 Wikipediaの記事によると、《笛吹童子は北村寿夫の脚本によるラジオドラマである。NHKの新諸国物語の第2作として1953年(昭和28年)に放送された。 放送期間は1953年1月5日~ 12月31日。主題歌「笛吹童子」は作詞:北村寿夫、作曲:福田蘭童。同年小説化され、以降、何度か映画化やテレビドラマ化された。》

 ついでに書き添えておくならば、そのころ少し後に見た東映映画に「天平童子」「風雲黒潮丸」というのがあった。主演は伏見仙太郎。新しい時代のヒーロー俳優が登場して来たのだ。主題歌も一部覚えている。

  黒潮さわぐ海越えて
  風にはためく三角帆
  目指すは遠い夢の国
  ルソン、安南、カンボジア
  はるかオランダ、エスパニア
  面舵いっぱい、オーオ、オー、オー
         
 これも当時ラジオで毎夕連続で放送されていた。NHKだったか? いや、多分民間放送局だったのではなかったか。
「天平童子」の歌は、《雨が降る日も風の日も、天平童子は……》で始まったことが記憶に残っている。こちらの歌はインターネットで探しても見つからないようだ。
 あのころの東映映画では、東千代之介の相手役女性は千原しのぶだった。中村錦之助の相手役は高千穂ひづる(「紅孔雀」に出演)、伏見扇太郎は星美智子(「天平童子」に出演)だった。
 さらに思い出されるのは、あのころ夕方のラジオ放送に「少年探偵団」というのがあった。江戸川乱歩原作。名探偵明智小五郎が登場し、その宿敵〈怪人二十面相〉がこれまた謎に満ちて子どもたちの心を魅了した。

 ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団
 勇気りんりんるりの色
 望みにもえる呼び声は
 朝焼け空にこだまする
 ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団

 そんな古い時代のことを記憶の中に渉猟するうちに、最近、パソコンの中から、ダンテの『新生』について書いた自分の古い文章が見つかった。
 学生時代には街の書店の文庫本が並ぶ棚をよく眺めに行ったもので、そんな中には、明治以降の日本の作家の本や欧米の翻訳物など、いろんな本がずらりと並んでいた。何度も見る内にそんな著者や書名をすっかり覚えてしまって、いつかはぜひ読んでみたいという思いを抱いていたものだった。ダンテの『神曲』(「地獄編」「煉獄編」「天国編」)、それから『新生』もそんな中のお馴染みだった。読みたいと常々思っていたが、『神曲』の「地獄変」を購入したのは就職してからかなり経ったときだった。一度読み始めて途中で中断し、そのままどこにしまったかわからなくなったままになった。
 『新生』はいつ買ったのだったか。今も私の本棚に残っている。巻末の大部な「註」を除く本文部分は百二十ページ余りと薄い。たぶん古本屋で買ったのだろうと思う。買ってからながらく棚に置いたままになっていたのを、ある日取り出して読み始めると、ある意味この作品のフアンになってしまった。
 岩波文庫版、山川丙三郎訳、かなり古い字体・文体の翻訳で、すらすらと読めないところがある。それに衒学的・宗教的ともいえる要素が全体に濃厚なので閉口するところが多い。それでも随所に、若きダンテが経験したと思われる恋愛独特の心理がちりばめられている気がして、そこのところに魅せられるものを感じたのだった。
 『新生』は、作者のごく若き日の作品で、詩31篇と、それぞれの詩がどういう由来で出来たかなどを説明する散文とから成る。〈私〉(=モデルは多分ダンテ)がペアトリーチェと呼ばれる若い女性に出会ってから、彼女の死に至るまでの経緯を順を追って記している。
《私の心の中の栄光の淑女が始めてわが目に現れたのは、私が生まれてこの方、光の天が、その固有(もちまえ)の回転から言って、はや九度(ここのたび)殆ど同一の点に帰った時の事である。彼女(かねな)はその呼び方を知らぬ多くの人々にもペアトリーチェと呼ばれていた。》
 光の天(=太陽)が九度同一の点に帰った時とはつまり〈私〉が九歳のときということだ。
 大仰な言い方だが、こういう書き方は当時詩人たちの間では常套的なものだったのだろうと思われる。
 九歳のときにある女性を見初めたということ。それを運命的なこととして記そうとしている。
 この時から〈愛〉は、〈私〉の魂を支配し、〈私〉の想像が〈彼〉(=〈愛〉)に與えた力により〈私〉に対して大きな力を有するにいたったので、〈私〉は全くその好む通りに何事をも爲さなければならなかった。〈彼〉は幾度も〈私〉に命じてこの幼い天女を見ることを求めしめた。それゆえ〈私〉は、幾たぴも彼女を尋ねてゆき、そのいと気高い讃むべき挙動(ふるまい)を見た。詩人ホメーロスの〈彼女は死すべき人の女(むすめ)と見えず、神の女とみえる〉という言葉も確かに彼女については 言いえられたのである。
 しばしも〈私〉を離れなかった彼女のおも影は、その徳がいと高かったため、理性の勧めを聞く必要ある物事においては、理性に反して〈私〉を支配することを一度も〈愛〉に許さなかつた。
 ここで〈愛〉というのは、人格化された〈愛の神〉のことを言っているのだろうか。あるいは心の働きの重要な要素の一つを人格化したものともいえるかもしれない。彼女を目にしたときから〈愛〉は私を虜にし〈幾度も私に命じてこのいと幼い天女を見ることを求めしめた〉。それゆえ私は、幼いころから何度も彼女を尋ねてゆき、〈そのいと気高い讃むべきふるまい〉を見た。
 このあたりの表現に、若きダンテが経験したと思われる恋の心理の片鱗がうかがわれる気がする。
《このいと貴い婦人が前記の如く現れてから丁度九年が終るというその最後の日の事、この妙なる婦人は、純白の衣を着、二人の貴婦人のなかで私に現れた。
 そしてとある道を通りながら、私のおずおず立っているところへ目をむけ、そのえもいわれぬ優しさから私に会釈をした、福祉のあらん限りをその時見極めたと私の思ったほどしとやかに。》
 九歳の時始めて彼女を見て、さらに九年が過ぎた日(つまり十八歳のとき)、二人の貴婦人と一緒にいる彼女と出会うことがあった。〈私〉がおずおず立っているところへ彼女は目を向けてえもいわれる優しい感じで〈私〉に会釈(えしやく)をした。その会釈が〈福祉のあらん限り〉(いいようもなく深い喜び)を〈私〉に与えたというのである。
 その後、ある日あるところで通りがかりに彼女と出会ったとき、彼女は〈私〉に会釈を拒んだ。〈私の福祉のすべて宿っているその会釈〉を。
 さまざまな考えの戦いがあった後、ある日、〈私〉は友人に連れられて、たくさんの女性たちが集まっている場所へいくことがあった。そして女性たちのなかに〈彼女〉がいるのを見た。
《目を挙げて女たちを見わたすと、そのなかにあのいと貴いペアトリーチェが見えた。同時に私の霊たちは、〈愛〉があのいと貴い婦人をかく近く見たために得たその力に滅ぼされ、視覚の霊たち以外一つも生き残っていなかった。……(中略)……婦人たちのうちの多くの者は私の様子の変わったのに気がついて異(あや)しみはじめた。そして語りあいつつこのいと貴い婦人とともに私を嘲った。》
 彼女を目にすることによって、〈視覚の霊〉が〈私〉の中の他の霊たちをすべて滅ぼしてしまった。その結果、〈私〉の様子に可笑(おか)しな(困った)変化が生じ、人々は(ペアトリーチェも含めて)〈私〉を笑った。
 いっしょに来た友人は、〈私〉の変調をいぶかしみ、婦人たちの見えないところへ〈私〉を連れて行って、いったいどうしたのかとたずねた。その場所からは、〈彼女〉の姿が見えないため、〈私〉はようやく少し落ち着いた。〈愛〉によって追われた他の霊たちもそれぞれのもちばに帰った。〈私〉は友人に答えた。「一歩進めば帰れる見込みのない生命の涯(はて)に私は足をとめた」と。
 友人と別れてから、〈私〉は、彼女を見るとき自分がなぜ常ではない困った状態になるのか、そのわけを知れば、〈彼女〉もあのように嘲わないだろうと考えた。
 〈彼女〉を見るとき、見ようとする思いが圧倒的に強くなって、心の他の要素(霊)を追い出してしまう。〈私〉の魂は奇妙な混乱状態に陥り、結果として苦しむ。それなのに、どうしてなおも〈彼女〉を見ようとするのか、と〈私〉は自分に問いかける。
「彼女の不思議な美しさを思い浮べる刹那、彼女を見ようという願いがすぐに起り、またその力がとても強いため、それに逆らうすべての力を死滅させる。従って〈過去のさまざまの苦患(なやみ)も、己が彼女を見ようとするのを止めはしないのだ。」
〈過去のさまざまの苦患〉というのは、過去に彼女を見たとき自分の身に起こった混乱、困った事態、そこからくる苦しみなどのことをいうのだろう。
 われわれの時代の文章とはずいぶんちがっているが、そんな中に若きダンテが経験したと思われる恋の心理の逆説的な詳細が記し留められている。私が好むのはそのような逆説的な(ある意味矛盾した)心理の一つ一つである。
 冒頭の解説によると、ダンテ・アリギエーリは西暦1265年イタリアのフィレンツェに生まれた。その都市の最高官の一人になったが、政変に巻き込まれて祖国から永久追放され、以後生涯にわたり放浪の生活を送った。『新生』は追放になる前の作だという。
 特徴的なのは、ペアトリーチェに対して運命的といってもよいような思いを持ち続けているにもかわらず、〈私)(=ダンテ)は終始彼女と個人的にかかわることなく、かかわろうともしていない。言葉もまったく交わしていない様子である。たまさかのすれ違いで彼女を見ること(あるいはそのとき彼女が彼に向けてくれた会釈)にこの上ない価値(至福)を見いだしているようだが、そんな思いを彼女にも世間にも秘め隠してそれを知られることを避けている様子である。そんな詩人自身の心は作品に細かく書かれているが、彼女そのひとについては、詩人の心の中で大げさに美化されるばかりで、終始抽象的にしか語られていない。
 訳者の解説にもある。
《「新生」がペアトリーチェを中心としたダンテの愛の歴史であるにも拘わらず、事件の進行に著しい変化がなく、とりわけダンテに対するペアトリーチェの感情が殆ど補足しがたい事、また彼女の性格がすべて抽象的に叙せられていることなど、多くの他の同種類の物語とその趣を異にしている。これに反して、ペアトリーチェに対するダンテの感情の叙述は、概して緻密で明瞭であって、特に書中に散見するその細やかな心理描写にいたっては全く近代的といってよい。》

 『新生』をはじめて読んだのは、社会人になってかなり経ってからのことだ。
 それよりもはるか以前、学生時代に好んで読んだものの中に一連の「心理小説」といわれる作品群があった。「心理小説」というジャンルの名称を生んだのは、スタンダールだったかもしれない。あのころスタンダールの『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』などを熱心に読んだ記憶がある。単に「心理小説」というよりも「恋愛心理小説」といったほうがいいのかもしれない。恋愛の心理を中心に人間の心のありさまを綴ったもので、その面白さは主に、人間の心や性格の逆説的な姿、ちょっと笑いたくなるような矛盾に満ちた真実が、ときには容赦なく皮肉に辛辣に、ときには軽妙なユーモアを込めて、記し留められているところにあった。そのような記述のなかに、人間心理の面白さ、魅力が遺憾なく感じられるのである。
 学生時代、私は一人の友人と互いの下宿を常時訪問しあって、文学や絵画やその他いろいろなことについてしゃべりあったものだった。特に彼との間では、読む本の好みがかなりのていど一致していた。
 学生時代に愛読したものの中に、主にフランスの小説で『クレーブの奥方』(ラ・ファイエット夫人)、『アドルフ』(バンジャマン・コンスタン)、『ドルジェル伯の舞踏会』(レーモン・ラディゲ)、『ドミニック』(フロマンタン)、『危険な関係』(ラクロ)、それからイギリスのものでジェーン・オースティンの『高慢と偏見』など、一連の心理小説といわれる作品があった。
 卒業した後も何度となくこれらの作品を読み返したが、そんな中でもとりわけジェーン・オースティンの諸作品がいまなお参考にしたい作品として私の中で生きている。たとえばこんな文章がある。人間の心の逆説的な真実の面白さの例として(ほかにもっといい例はいくらでも見つかると思うが)、とりあえずここに挙げておきたい。
 ミスター・ダーシーはエリザベスがひそかに心を引かれるようになった男性で、いつか彼から〈愛〉を告白されたことがある。そのとき彼女は彼のことをプライドが高くて鼻持ちならない男と思っていて、歯に衣着せぬ言葉できっぱりと申し出をはねつけた。その後、彼女が彼の性格や行動を誤解していたことがわかってきて、彼に次第に心を惹かれ始めるようになる。しかし、いまさらどうして彼の愛を求めることなどできるだろうか?
 場面はエリザベスが、ガーディナー夫妻に誘われて、ダーシー邸の庭園を見物にいくところ。
 邸宅の主人(ミスター・ダーシー)と出会う恐れがあることを考えると、エリザベスはとてもそんなところへいけないとしり込みする。しかし、たまたま彼が長期間留守をしていて当分家に帰らないことを知ったので、エリザベスは「それならば」とかえって見物に行く気になった。見物中しかしダーシーが予定を早めて帰ってきて、エリザベスたちと出会うことになった。そのときのエリザベスの困惑ぶりと、ダーシーの丁重なもてなしぶり。そういう有様を目の当たりにしたミセス・ガードナーの心の中には、これは何かあるにちがいないという強い謎が生じたのだった。
《帰る途々、ミセス・ガーディナーとエリザベスは、訪問中の出来事すべてについて、話し合ったが、どうしたわけか、とくに二人とも興味をもったあること(=ミスタ・ダーシーのこと)についてだけは、一言も話題にしなかった。会った人たちみんなの容貌、態度、もちろんそれは話に出たが、ただ一番観察したはずのある人についてだけは、ついにどちらも口にしなかった。その人の妹、その人の友人、そしてその人の家、果物等々、出ない話題はなかったが、ただ出ない唯一は、その当人の話だけ。そのくせ、事実エリザベスが、一番知りたがっていたのは、果たしてその人のことを、ミセス・ガーディナーはどう思ったかということであり、ミセス・ガーディナーもガーディナーで、これまた早くエリザベスが、その話に入ってくれればいいのにと、しきりに待っているのだった。》(ジェイン・オースティン『自負と偏見』、新潮文庫、中野好夫訳から)
 もう一つ、パソコンの中の同じフォルダーに保存されている文章にこんなのがある。同じ本の近くの箇所からとって来たもので、エリザベスたちと出会ったときのダーシーの応対の様子を思い出しながら、エリザベスは思うのである。
《おそらく平気だからこそ、彼はあんな慇懃な口の利き方をしてくれたのであろう。だが、また別の考え方をすると、どうもあの声には、単に平気と言ってしまえないなにものかがあった。果たしてわたしに会って、うれしい思いのほうが強かったか、苦痛のほうが大きかったか、それはわからない。だが、とにかくただの平静でなかったことだけは、たしかだった。》
 彼女たち一行に出会ったとき、彼が落ち着いて丁寧な口の利き方だったのは、彼女を目前にしても彼はもはや平静な気持ちでいられるからだろうか。いや、しかし、それにしてもあのときの彼の声には単に平静と言ってしまえない何かがあった。いずれにしても〈ただの平静でなかった〉ことだけはたしかだった。……

 その後就職したあと転勤を繰り返す間にも、これらの小説を読み返した。ずっと「心理小説」への思いはあって、そのために自分でも幾つもの断片的な文章を書きためた。そのうちに関心はほかに移ってしまい、長いあいだ心理小説のことはすっかり忘れていた。はるかの昔書き溜めた紙片は書斎の周辺にメモの形で残り、パソコンの中にも眠ったままになっていた。
 いつか一つの作品にまとめたいと思っていたのだったが、後に読み返してみると、書いた時の気分はすでに失われていて、こんなものはとても作品に使えない、と感じるようになった。それでもたまに読み返すと、ここにはそれなりに捨てがたく貴重なものがある、という思いも残る。
 遠い過去に気紛れに書き散らした古い断片から、二つほど切り取ってきて、ここに並べてみることにしよう。
 もう何十年も前に書いたものなので、最近の自分の感性や書き方とはずいぶん違っている。それでも読み返してみると捨てがたい気がするのだ。


     路上で

  先日ふと思いがけない彼女の車が道端にとまっているのを見かけた。彼女の車のナンバー――なんでもない平凡な「7803」という数字が、今では彼にとって特別な意味と感触を帯びたものとなっている。たとえば仕事で数値を扱っていて、似たような数字の配列に行き当たると、「ああ」とうめきに近いようなため息がもれるのである。
 道路を車で走るとき、いつも知らないうちに対向車のナンバーを読み取る習性ができてしまっていて、似た番号の車を目にすると、何かしら心に感じるものがあるのだ。たとえ数字の順序はちがっていても、四つの数字が同じ、たとえば「8730」「7038」「3807」、あるいは三つだけが同じ「3705」「4083」「2738」とかいうのでも、彼は一瞬にしてたちまちそこに彼女という人の痕跡を読み取ってしまい、そのつど何かしらちょっと深刻な、痛みとも喜びともつかないものを感じるのである。
  その日、夕方、車で買い物に出かけて帰る途中、信号のない交差点で一旦停止して、何気なく顔を右に向けると、予期しないものが目に留まった。道端の狭い空き地にこちらに背を向けて止まっている車、それはまぎれもない彼女の車……色、形の特徴とナンバーからすぐにそれとわかった。彼は交差点を右に曲がろうかと迷い、強くためらったが、そのまままっすぐに進んでいった。いったい、どうして彼女はあんなところに車をとめていたのか、道の両端に家は立て混んでいるが、車をとめて立ち寄るような店もないし、と彼は思い、ひょっとしたら先ほど彼の車がそこを通ったのを目にして衝撃を感じて止まっていたのだろうか、彼がもどってきて再び通るかもしれないと思ったのだろうかという、まったくありえないような考えが一瞬彼の想像の中にひろがった。そんな考えがまったく現実的でないことはすぐに理解できた。けれども彼の心は反射的に触手を伸ばして、そんなありえないとわかっている可能性を探らないではいられないのである。
  すぐに引き返してきて先ほどの交差点を曲がると、彼女の車はまだあった。そんなに長く停車しているのだからきっと車の中にだれもいないだろう、そう思いながら、そのすぐ横を通ったとき、運転席に彼女がいたので驚いた。彼女は少しうつむき加減でやや向こう向きになっていたために、顔を見ることができなかった。ただ、その瞬間、垂れた髪が揺れていて、その印象がかつてよく目にした彼女の特徴をとても感じさせたので、彼は自分の中に嬉しく動くものを感じた。ああ、彼女はとてもいい……という思い、いいようもない喜びと憧れの気持が生じ、その気持に従って行ってもっと彼女を見られないこと、今では彼女と出会えない状況になっていることを苦しく感じる気持になった。彼女はずっと車の中にいたのだろうか?  それとも今車にもどったところなのだろうか?  彼自身の中に生じたこのうえなく魅力的な感情の影響で、彼女も彼を見れば心に感じるものがあるにちがいない、という気がとてもした。彼女は彼に気づかなかっただろうか、気づいて後ろから追いかけてくるのではないだろうか、そんな期待をもって、ルームミラーで後ろを見ていた。後方に一台の車が現れ、すぐそのあとに彼女のらしい車が道路に入って後に続くのが目に入った。「やっぱり彼女は気づいたのだろうか」と彼は思った。「車のナンバーから……」
  ムシのいい想像。ナンバーを記憶に留めてくれるほど彼女が彼に関心をもってくれていたならば!  実際他人の車のナンバーなどは、特別な必要がないかぎり、何度覚えようと努めてもすぐに忘れてしまうものであることを、彼自身いつも経験しているところだったのに。
  次の交差点で彼は左側の脇道に入った。彼女の車を先に行かせて後を追おうと考えたのだ。脇道に入った後すぐに車をターンさせながらバックミラーで後方を見た。彼女のらしい車が通り過ぎるのが見えた。彼はすぐに彼女の後に続こうとしたが、間に何台もの車が入って遅れてしまった。ふと気づくとすぐ前を彼女のらしい車が行く。すると先ほどのは彼女ではなかったのか?  近づきすぎて気づかれることのないように注意しながら、後を追った。かなり行ってからそれが彼女の車でなかったことに気づいたときには、彼女はもう遠くに去っていた。
  ほんの一瞬ガラスを通してかすかに見た彼女、髪が揺れていた……あのときの心揺らめいた印象を彼はくりかえし思い返した。彼女はどうしてあんな場所に車を止めていたのだろうか。彼に気づいただろうか。状況を考えれば考えるほど、気づかれた可能性は薄いというしかなかった。
  こんなわずかなこと、偶然彼女の形跡にかすかに触れたということが、今ではもうきわめて稀にしか恵まれない幸運となっている。こんな小さなものから、彼の心はまたしてもありもしない豪華な希望の可能性を紡ぎはじめるのである。

  最後に向き合って見た彼女の顔を彼はしばしば思い出す。彼女を目にすることさえもできなくなった今は、もっぱらあのときの印象によって彼女を想い描いているのだ。いろいろ不愉快なこと、困ったこと(彼にとってはそのどれもが痛ましくも嬉しいものであったが、彼女にとっては不愉快で困ったことであったと思われるいろいろなこと)があった数か月のあとで、彼は最後に彼女と向き合ったのである。もうこのころには道ですれちがっても軽く会釈を交わすことさえできなくなっていて、それでもまだ彼女の姿をときどきは見かけることができ、それが彼に残された最後の希望ともなっていた。そんな形ででもまだ思いが生き残っていくことができることは救いだった。ところがそこへさらに決定的な一撃が加えられることになった。事情があって彼は彼女と出会う可能性のない場所へ去っていかなければならないことになったのだ。彼は最後に一言だけ別れを言いたいと思った。個人的に親しく言葉を交わしたこともないし、そんなことができるような間柄でもない彼女にわざわざお別れを言うのは奇妙すぎる、そのことはわかっていたが、この際そんなことも許されるだろう、という気がした。さらに困ったことには、最後に彼女とお茶でも飲みながら話をしたい、きっと彼女も応じてくれるだろう、という呆れた考えが浮かんで、その考えを捨てられなくなった。話さなければならない用など何もないが(ずっと心に持ち続けている馬鹿な思いのことを話して彼女を困らせることはできない)、ただ半時間だけでもいい(一時間とはいわない)、向き合って何の関係もないごくつまらないことを話すことができたらどんなにいいだろう、そうすればあの顔を今までになかったほどよく見ることができる、それだけでどんなに値打ちがあることだろうか、たった一つの行為によってめったに得られないような貴重な瞬間が得られるのだ、と思うと、ぜひそうしたかった。もう最後だからこんな愚かしいことを求めても彼女はきっと悪く思わないだろう、という気がして、よほどその願いを言い出そうかとさんざんに悩んだ。けれどもそんな願いはあまりに唐突すぎるし、彼女が抱くであろう疑念、不安、恐れのことを考るととても言い出せることではなく、迷いに迷った結果、結局断念してしまった。今はとても無理だ、でもいつかもっといい機会がくるかもしれない。……
  その朝、街角で彼女が歩いてくるのを見かけたとき、彼はためらわずに彼女に近づいていった。彼女の心に負担をかけることを避けるために、深刻ではない軽い表情を見せようと、笑いを浮かべて彼女を見た。こんなふうに彼女の顔を見るのは何か月ぶりだろうか。彼の笑いに釣られて、彼女も軽く笑いを浮かべた。けれども彼女はすぐにおさえた真面目な顔つきになって彼を見た。その瞬間にはその顔が何かしら深刻な翳りを含んだ気持をあらわそうとしているように感じられ、彼はちょっと嬉しい気がした。あるいは彼女にも心に悲しく思うものがあるのだろうか?(何と容易に人は自分の心が求めているものの影を見てしまうことか!)
 話は何でもない数言で終わってしまった。彼女は道を急いでいる様子だったし、それまでのいろいろな経緯から彼と向き合うことに少なからぬ困惑を感じているにちがいないと思われた。早く立ち去らないと彼女に対して悪いという気持に彼は追い立てられていた。
  彼女と向き合ったとき、思っていたほどに悲しみも苦しみも感じなかった。ほんの短い数言で別れた後にも、最後に言葉を交わせてよかった、いろいろ悲しいことがあっただけに、不愉快なわだかまりも解けて彼女もほっとしただろう、と思う静かな満足の気持があった。数か月前にひどく頬が落ちているように見えた彼女を久しぶりで見かけて(青ざめてやつれているように感じられる彼女の顔ほど心に深い印象を刻むものはない)、なんでもないように笑ってちょっと言葉を交わしながら、この人をこんなふうに真近に目にする機会が今はもう失われたのだ、それはあまりにも致命的なことだ、と思った、あのときの苦しみ(その後数か月の間毎日続いていったあの恐ろしいような苦しみ)は今は不思議になかった。
  現に向き合っていた短い瞬間には、彼女の顔が悲しみの気持を表明していることを彼は心の隅でたしかに感じた。どんな種類の悲しみかは知らないが、とにかく彼女の心の翳りを見るような気がして、彼はしみじみと嬉しい気がした。けれども人の心の悲しさ、彼女と別れて冷静に反省する余裕ができると、彼はあの印象をそのままに信じるわけにいかないことに気づくのだった。あれは彼女自身の悲しみではなくて、彼の悲しみへの優しい配慮にすぎなかったのではないか。もう彼女を見ることができなくなった彼の心の悲しみを察して、彼女はあんな顔を向けてくれたのではないか。自分のせいで人が悲しみ苦しんでいると思うと、だれだって明るい顔を抑えて遺憾の意を見せようとするだろう。彼女としては、彼女のせいで彼が苦しんだり悲しんだりしなくなりさえすれば(彼が彼女のことを何とも思わない状態になりさえすれば)、それで安らかになれるのだろう。
  短い数言の後、彼は「それじゃ、また」とうなずいた。そして心のためらいを押して、あらかじめ言おうと考えていたことをつけ加えた。
「そのうちまた近くにくることがあったらおうかがいします」
「ありがとうございます」
  彼女はていねいにお辞儀しながらすぐに立ち去る姿勢に入った。そのときには彼女に安堵と喜びを与えたような気がして、静かな満足と嬉しさが残った。しかし、思い返すうちに、立ち去るときの彼女の物腰に何だかあわてて逃げるような印象があった気がしてきて、それが気にかかりだした。彼が「またおうかがいします」と言ったので、彼女は〈それは困る〉という思いで急いで去ったのではないか。そういえば、彼女は終始、彼の向けた言葉に返事をしただけで、彼女の方からは彼に向けて何も言い出さなかった。それは当然で、彼女としては余計なことを言ってこのうえに彼を彼女とのかかわりに引き込むこと、好意を見せてあらぬ誤解を招くことを避けたい気持だったのだろう。一度そんな考えが浮かぶと(それはとてもありそうなことに思われたので)、彼はもう彼女が顔で表明していたものを信じることができなくなった。これでもう終わりだと思うから彼女も彼にあんな顔を見せることができたのだろうけれども、本当は早く逃げ出したかったのではないか、もしそうだとしたら彼女の目の前にふたたび姿を現すという彼の望みはとんでもない現実を離れたことになる。やっぱり彼女は彼を避けたがっていたのだ、これまでしばしばそんな気がしたのは当たっていたのだ、そうだとしたらこんな思いを寄せる自分は彼女にはぞっとするような存在でしかないのだろう……そんな思いが彼の中で次第にどうしようもなくふくらんでいくのだった。
  それでもなお幻想は幻想として生き続けていく。彼女は彼とかかわることを嫌って逃げるように去っていったのだ、という痛みを伴った思いと平行して、彼女が見せたちょっと深刻げな顔つきがずっと生き残って、彼の中に定着してしまった。彼女の顔にはほかにもっと心を喜ばせるいろいろな面があったのに、最後に目にしたあの陰りを含んでいるように感じられた顔だけがもっぱら彼女のものとして浮かんでくるのである。
 あれは何でもないものではなかった、何だか思いがこもっているようだった、あの顔をやはり信じてもいいのではないか、と幻想に誘うものがあって、折にふれて思い返し、想像の中であの顔を目の前にもう一度見ようとするたびに、彼はしみじみと深く嬉しい気がするのである。彼女としてはただ彼の気持への優しい配慮を見せてくれたというだけのことかもしれない、それはもちろんそうだろう。しかし、たとえそうだとしても、彼女に向けられる彼の心の思い(彼女に知られることが戦慄的でもあるような思い)を今では明瞭に感知しているにちがいない彼女が、あんな顔を彼に向けてくれたことは、やはりほとんど信じられないようなことだという気がするのである。


      視線

  午後は彼を見る機会がなかったし、ほんのたまに見てもそれほど心を引かれないような気がした。
  けれども、夕方、彼のあの〈視線〉に出会ってから、彼の存在が彼女の心に深い喜びを引き起こしうることを彼女は改めて認識した。それを感じることは彼女にはこのうえない優しい喜びの体験であるとともに、深い憂鬱の体験でもあった。どんなに深い憧れを感じても彼の存在に近づくことはけっしてできないのであるから。
  あのようなものを感じることができるのにそれを忘れてしまっていたこと(その実感をもはや思い出せないですごしてきたこと)に、彼女は強い驚きと危惧を感じた。なぜならそれは忘れることが何よりも重大な損失であると思われる種類の感情であったから。
  たまたま訪れた一つの機会に、彼女はほんのひとことであるが用件を思いついて、彼に一つの質問をしたのだ。すると彼は彼女の顔を見、彼女も彼の顔を見た。そのとき彼女は、彼の顔に何かしらいいようもなく心を打つニュアンスがあるのを感じた。それは輝くような眩しい魅力というのではなく(そのようなものが彼にないというのではない)、どこかしら子どもみたいに素朴で人のよい印象、憐れみさえももよおさせるような印象の中に感じられる、心にしみ入るような、ある独特の印象だった。音楽でいうなら憂いを帯びた短調の旋律。その憂いは、憂いというよりはむしろ喜びなのであるが(すべて深い喜びは憂いを含んでいる)、ショパンやモーツァルトの曲のなかに現れるこのうえなく美しい部分のように、その印象は彼女の心を強く打ったのであった。音楽ならば自分の好きなときにまた聞いて、そのなんともいえない喜びのニュアンスを繰り返し心に呼びもどすこともできよう。けれども音楽を聞くように彼の顔を見ることはできなかった。
  彼を見たその一瞬、彼女は、彼女がある特別な思いをもって彼を見たことを彼は感知していると思い、彼もそのことを意識しながら彼女に向かってきている、と感じたのであった。けれどもその場を去って後で考えると、それが何らたしかなものとはいえないこと、むしろ事実に反した幻想にすぎなかった可能性が高いことに気づくのだった。
 その場にいたときどれほどたしかだと感じたことでも、後になって振り返ってみると、すべて疑わしい事実、疑うことのできる事実に変わってしまうのである。
  閉じられた神の心がほんのまれな一瞬開かれて自分のほうに向けられたと信じるキリスト教の修道者のように、彼女は、彼の心がその瞬間自分の上に向けられたと思って喜んだ。彼の視線の一べつによってもたらされる信じられないような効果……彼の視線は彼が親しくしている人たちに向けてはふんだんにばらまかれているのに、彼女の上にはめったに降ってこないのだった。
 あのとき、彼の視線が彼女の上に注がれたのは、彼女がちょっと用を思いついてつまらない質問を彼に向けて発したからにすぎず、だれだってそのように質問されたら相手の顔を見るにちがいない。けれどもどんな形であれ、その視線が彼女に向けられ、一瞬であれ彼女が彼の意識の中に入ることができたと感じることは、一つの奇跡のようなものであった。
  いったいこれはふり向いてくれない母親または父親に対する幼児の心の状態と同じものなのではないか、と考えることが彼女にはよくあった。                       (了)




# by mozar | 2019-11-10 17:18 | 小説作品

ワンロケケーロケ チャッチャッチャ 昔の歌が突然思い出されて

 きっかけは何だったか、さきほどいきなり、
ワンロケ ケーロケ チャッチャッチャ」というような歌があったな、と思い出した。
 昔、子どものころに流行して、これまでずっと、多分〈一度も〉思い出すことのなかった歌の一節。
 それが突然頭に浮かんだのは不思議。
 別にどうという意味はないのだが、気にかかるので、インターネットで調べてみることにした。
 チャチャチャという歌があのころ流行ったのだったか。
 そういえば「おもちゃのチャチャチャ」という歌もあった。
 「ワンロケケーロケ」で検索してもひっ掛かってこない。あの歌はもう消えてしまったのか?
「ワンロケキャーロケ」だったかもしれない。これもだめだった。

 たしか歌手は江利チエミだったか、という記憶がかすかにあったので、それで検索すると、ひっかかってきた。
チャ・チャ・チャは素晴らしい」という題名で、江利チエミが歌うyoutubeの動画がみつかった。
(歌手:江利チエミ、作詞:E.Jorrin・訳詞:音羽たかし、作曲:E.Jorrinとある。)

  ほんとに大好きチャ・チャ・チャ 
  誰でも彼でも踊り出す
  あなたも私もチャ・チャ・チャ
  チャ・チャ・チャは素晴らしい

  騒ぎに驚いて おっとりがたなのおまわりさん
  人垣かきわけ 飛びこんだが
  つられて自分も踊りだす

  ワンロケ・ケーロケ チャ・チャ・チャ
  トーボケターバリ ナーバイナ

  ワンロケ・ケーロケ チャ・チャ・チャ
  トーボケターバリ ナーバイナ
(このカタカタ部分は、昔の記憶をもとに、当時耳から聞いて記憶に留めたままを、適当に記す。
元の歌はアルファベットで記されていて、正確な発音はわからない。)

 1955年とあるから、昭和30年(終戦後10年)の発売だったのか?
 当時は格別の思いはなく、ほかの流行歌と同じように繰り返し口ずさんでいたようだ。
 今聴くと懐かしく、とても愉快で楽しい歌である。

 このところどうもさえない日々が続く。
 日々ごく少しずつでもいいから、何かしていこうと思いつつ、これは是非ともしなければならないと思うことからそれて、どうでもいいことに次々と没頭して、まったく遅々としてはかどらない。
 年齢からくる衰えも感じながら、それでいい、少しずつ、少しずつ、それでいい
と自分に言い聞かせながら、文字通り何も進展しない日々が続いていく。



# by mozar | 2019-11-05 20:39 | 思い出すことなど

セイタカアワダチソウだったのか

 6月ころだったか、荒れ地などでよく見る草が気になっていた。
 昔からよく知っている草だ。どんな花が咲くのかこれまで意識して見たことがない。
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 これは道路端の歩道の横に
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 背丈が2メートル以上もあるものもある
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 8月中旬だっったか、この種類の草が黄色い花をつけているのをみかけた。
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 調べると、どうやらメマツヨイグサ(雌待宵草)のようだ。
 昼間花がしぼんでいて、夜開く、いわゆる「月見草」の仲間。

 花が咲く前はよく似た草なので、たぶん同じ仲間だろうと、考えもなく単純に思い込んでいた。

 9月になってふと気付いた。
 ずっと月見草の仲間(メマツヨイグサの類)だと思っていた草がいっせいに花をつけているようだ。
 繰り返し見るうちに、予期していたマツヨイグサの花とはちがうようだ。
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 どうやらこれはセイタカアワダチソウではないか? その花粉が、ブタクサとともに気管支ぜんそくのアレルゲンにもなるといわれる。
 背の高いあの草も実はセイタカアワダチソウだった。
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 秋が深まるうちにふと気付くと、周囲にはセイタカアワダチソウが
いたるところに群生している。
 色も次第に黄色が濃くなって、今や真っ盛りという感じ。
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# by mozar | 2019-10-24 01:11 | 野草・野鳥の名前を知りたい

センニンソウを発見(久し振り)

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 これはセンニンソウ!?

 散歩の途中、気になる草を確かめようとして、そのそばにたまたま目に付いた花(草)

 これはまさにセンニンソウでは?

 10年以上前にまったく別の場所でこの花を見つけて、写真にとって、ブログに載せた記憶がある。
 その後もその場所付近を通り過ぎるたびに、再びセンニンソウを見られるのではないかと注意していたが、再び見ることはなかった。
 その他の場所でもセンニンソウにお目にかかることが出来なかった。

 この9月、散歩途中、まったくちがった方面の河原の土手でそれを見つけて、写真にとった。
 写真を見ながら、ネットや図鑑で調べてみると、これはたぶん(まちがいなく)センニンソウだという結論に。葉がはっきりしないが。
 写真がぼやけているので、もう一度たしかめて撮り直そうと、翌日と翌々日の散歩時に、同じ場所を通ってみたが、再び同じ花は見つからなかった。(どうしたのだろうか?)

 10年以上前(2007年9月)のブログの写真では、花の数はずっと多かった。
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 こちらの写真でも葉の様子ははっきりしないようだ。
 野草図鑑では、もっと繁く花が密集していて、別もののようにも見える。

 よく似た花をつける野草にボタンヅルというのがあって、どちらも「キンポウゲ科センニンソウ属」とされている。
 両者とも、花はそっくりのところもあるが、葉の形でで見分けられるそうだ。

 ボタンヅル(牡丹蔓)の葉は、ボタンの葉に似て、ギザギザの切れ目がある。
 センニンソウ(仙人草)の葉形は、ギザギザがなくなめらかで丸く、先のほうがとがっているということだ。

 

# by mozar | 2019-10-01 04:44 | 野草・野鳥の名前を知りたい